2014年11月18日火曜日

少女、怪物、魔女

絵はあんまり関係ない、7月に描いたらくがき



「……しかし男たちは「女らしい」とか「少女的」と名付けた彼らの真理の中にあるものを恐れ、絶望的に表現することを要求されるのである。」
レスリー・フィードラー『シェイクスピアにおける異人』p.48


前回のエントリで、ミーノータウロスとは、女が迷宮に隠している少女性、危険な本性を表すものであり、これを殺すことによって、男によって愛されることのできる女となる……という神話の類型があるのではないか、と言うようなことを書いた。
むにゃむにゃその続きを考えたりしてみたので、忘れないうちに、記しておく。

ミーノータウロスというのは、少女を他者であり、得体のしれない者であると捉えた時に出現する幻想であり、彼らの中にある「少女的」なるものへの恐れの姿なのではないか。
この怪物を殺し、迷宮を迷宮ではなくする――――迷宮を征服することで、女という他者を征服可能なものにすることへの欲望が、この世界にはあるのかもしれない。
得体のしれないもの、迷宮を、明らかにし、出たり入ったりすることが容易にできるものにしたいという願望が、こうした神話を生み出すのではないだろうか。
つまり、世界は「少女=ミーノータウロス」をある意味去勢して、制御・支配できるものにしようとしている……とわたしはぼんやり思った。
ミーノータウロスはギリシアによって征服されてしまったオリエントの神だ。女神をいただく文明の、女神に愛される男神だった。
女性の中にそうした力が潜んでいるのであれば、これを削ぎ、同等の力を持たぬ、安心して支配できるものにしなければならぬ――――という声が、この迷宮の神話からは聞こえてくるようだ。

私はアリアドネーがテーセウスに捨てられなければならなかったことに納得した。
テーセウスは独力で迷宮を征服したわけではなかった。アリアドネーの愛、アリアドネーの知力のために彼はこの迷宮を征服し、外へ出ることが出来た。
彼はアリアドネーを完全に征服することができなかったのだ。この異国の、知恵ある、ものいう女は、「彼のもの」にならない運命にあるのだ。



ところで、シェイクスピアについての本をいくつか読んでいくうちに、わたしは、シェイクスピア劇の上演を見る時にたびたび感じる違和感の正体にふと行き当った。
シェイクスピア劇のヒロインたち――それも主に悲劇のヒロインたち。わたしは女性によって演じられる彼女たちを見るたびに、なんだかもやもやしたものを感じていたのだ。
オフィーリアやジュリエットを演じることはひどく難しいことだと思う。
演劇学校の演習でわたしも一部を演じたことがあるけれど、こうした名作の「悲劇のヒロイン」を演じる素晴らしい機会であるというのに、わたしの全身はそれを拒否していた。
魅力的な役だとは思う。ほんとうによく出来た台詞たち、美しい言葉、複雑な人間性。
(だけれど、これらの女たちを演じるのが怖くて、怖くて、毎晩泣いていたほどだった)

このシェイクスピアの娘たちは、元は少年たちによって演じられていた。
オフィーリアも、ジュリエットも、マクベス夫人も、ヴァイオラも、ロザリンドも、みんな、少年たちによって生かされるものだった。
シェイクスピアがすごい、と私が思うのは、こうした、少年たちのために創造された役が、男性たちのの中にある「女性的なるもの(他者)」のイメージを照らし出しているように思われるところで、そんな少年によって演じられる「男の中の女のイメージ」が男装をしちゃったりするところ。
男装をするシェイクスピアのヒロインたちは、男性と同等に振る舞い、彼らを翻弄したり、欺いたり、とかく胸のすく活躍をする。
そうだ、女というのは男と同じかもしれない――――という示唆、畏れを含んだ魅力が、この、少年俳優たちによって演じられる「男を演じる女」に詰まっている。

だから、シェイクスピアの女は男によって演じられるべきだ――――とは言わない。女優によって演じられることで生まれる面白みがあることは分かっている。
ただ、この他者性、そしてそれを裏返して、すべてを包み込むヒューマニズムみたいなものに気が付かないで安易に女性俳優がこれらヒロインたちを演じると、なんだかピントがずれるような気がする。
わたしがシェイクスピアの娘たちを演じるのが怖い理由は、それだけではないかもしれないが。


少女たちは男装し、自ら行動することができる(かもしれない)そしてそんな少女は少年によって演じられる。
少女たちはいとも簡単に性の境目を飛び越え、世界を渡っていく。
これこそが、世界が少女たちを恐れる理由であり、ミーノータウロスの正体ではないだろうか。
ミーノータウロスを殺させていない少女、去勢されていない女は男と同じ人間であるかもしれない、という恐れが、英雄たちに怪物を殺させ、お姫さまを従順な彼の女に変えさせてしまうのではないか。
もしかしたら英雄よりも怪物と一緒に暮らす方が楽しいかもしれないのに、小さなころから、英雄に愛されることこそが幸せなのだとすりこまれるから、一部のお姫さまたちは英雄にわざわざ剣や糸玉を与えてしまうのだ。


ここでわたしは、魔女と、魔法少女たちのことを思いだした。

知恵ある女たちが「魔女」と呼ばれて辛い思いをしていた時代があった。
現実的なレベルでは、彼女たちの使う魔法とは、別に異界のものでもなんでもなく、この世界の理を知り、使う力であり、この世界に自ら干渉しようとする力であり、思考そのものであったように思う。
(メディカルハーブに関する知識があった女たちが魔女とされていた時代・地域があることは多くの人が知っているだろう)
そうすると、魔女の魔法というのは、大人や「男」たちの言いなりにならず独力で世界を渡って行こうとする命の炎のメタファーなのではないか。

さて、日本には「魔法少女」の文化がある。ざっとサブカルチャーを見渡して、魔女よりも魔法少女たちの方が多いように思うし、また、こちらの方が輝き、名前をとどろかせている。
日本においては成熟した女たちよりも少女の方が魔法に近しい存在のようだ。
こうした魔法少女たちは、たしかに、独力で、もしくは同じ魔法少女コミュニティと結託して、世界を渡って行こうとする。
セーラームーンは自分で王子を助けるし、おジャ魔女たちは自分たちの身の回りの事件や悩みの解決にその魔法を使っていたように思う。
彼女たちは自分たちが力を持っていることを知っているのだ。
しかし、彼女たちには掟がある。魔法少女たちは正体を知られてはいけない。
少女たちは自分に力があるということを世間から隠さなくてはならない(と教え込まれる)。
なんて悲しい世界だろう。


かつて「少女」といわれる存在だったことのあるわたしだが、当時と今とであまり内面的に変化したようには思われない。
そんなわたしは最近、いろいろな人に「魔女」と言われ始め、自分でも魔女であることを受け入れ始めている。
そして、魔女狩りの時代は終わったのだから、魔女でいることを恐れなくてもいいよね、安心していると同時に、形を変えたひそやかな魔女狩りが、まだこの世界に存在しているのを、肌のどこかで感じている。

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