2015年2月24日火曜日

言葉の花束

おかげさまで、鎌倉 カフェ・エチカでの「ひとりギリシア悲劇」、
満員御礼、大盛況でした。
足をお運びくださったみなさま、
素晴らしい言葉をかけてくださったみなさま、
公演後のシュンポシオンを共に楽しんでくださったみなさま、
ほんとうに、ありがとうございました!

今回の公演は反省も多い分実りも多く、
次のステップを踏むための示唆をたくさん得ることが出来ました。

そして嬉しいことに、公演を通して出会った方々から
すばらしい分析、感想、言葉の花束を頂くことが出来ました。
わたし自身、無自覚のうちに行っていること、
というよりも、何を行っているのかよく分からずにただひたすらやっていることを、鋭く見つめ、認めてくださる方がいるというのは本当にうれしいことです。
また、昨年から続けて見に来てくださった方、同じ演目を見ていただいた方に、昨年とは違った感想や、新しい発見を聞かせていただけたのも本当にうれしかったです!

以下に、頂いた言葉の花束を、いくつかご紹介いたします。


◆S様より

彼女の渦巻くカオスの黒髪

どちらが、いっそう烈しく運命のいたずらを嘆いただろう、王妃クリュタイメーストラだろうか、それとも車の中にじっと身をひそめていた巫女カッサンドラだろうか?
いきなり叫びをあげて、身をよじり血を吐くようにアポロンの名を呼びつづけるカッサンドラは、この劇の心臓として、不意にその白い胸から取り出されて、グイッと観客に突きつけられる。
かって、これほど悲痛なヒロインがいただろうか?これほど孤立して、救いのない、王女というものがいただろうか?呪われているばかりか、罰せられている、揺れる大地に立っているしかない、狂乱の黒い髪!
演じる二葉さんの小柄なからだが、松明に照らされて、海風に嬲られて、みるみるうちに巨大な影となって遠いギリシャの空に浮かび上がるのを見た。
いったい、なにが彼女に取り憑いたのか、その狂乱は度を超していて、さわったら火傷しそうなほどに灼熱している。
それは、手負いの鹿が、いちばん高く跳び上がる、というディキンソンの詩の一節を思い出させる。いや、おそらく、後世のおんなたちは、多かれ少なかれ、カッサンドラのように、
与えられた運命にむかって「否!」と叫ぶだろう、くりかえし。
ありとあらゆる悲劇の源泉が、ここにある・・・、その現場に立ち会っているということでは、ドキュメンタリーの相貌を見せもする。

二葉さんの竪琴は、すべての悲劇にはその因果が織り込まれているのだと、それとなく前触れしているかのように奏でられる。
そして、さりげなく、古代ギリシャ人は、近代以降の人間のような自己表現ではないと、二葉さんは断っている。そればかりでなく、世界最古の’闘争そのもののダイナミズム’を描いた悲劇の骨格をみごとに説明して、遠い神々の住むオリンポスの山々を指差し、ディオニッソスの祭礼へと誘って、ひとりですべての演者となって、この複雑なギリシャ悲劇『アガメムノン』の幕を切って落とす!



トロイア戦争では、どれほどの贖いの血が流されたことか。
そのことを知っている人々は、この血塗られた一族の骨肉の争いは、遠い地での果しない戦いの写し絵であることを知っていて、
いいようのない重苦しい空気が漂っている。これほど、暗鬱なプロローグがあっただろうか?行く先にあるのは、血のように真っ赤な夕焼けと、漆黒の闇・・・、この夜は明けることのない無明の閾なのだ。

驕れるものは、かならずその傲慢を罰せられることを。
その身を滅ぼすものは、かならず身内にひっそりと宿って、時の歩みと軌を一にして育っていくことを。『アガメムノン』の構造は、球体のガラスに、繁茂する森を抱え込むmille-feuilleさながら。
二葉さんは、それをお手玉のように弄んでみせる・・・。その無邪気さこそが、’獅子のごとき心を持つ子供たち’古代ギリシャ人だと、ハッと気がつく。

苦悶の表情から眼をそらさない・・・、強者の劇。それを、二葉さんは、鎌倉の小町の一隅、小さなカフェで演じてみせてくれた。たったひとりで、やって来て・・・。(ms)




◆C様より

力の由来

現代劇において、強い情念激しい言葉をもって、人物魂魄を演じられた場合、かなり優れたものであっても、どこか白々しさを免れない。
劇中で発せられる激しい情念や悲痛嘆願が、一個人の感情からぬけないので、せいぜいがじぶんに似た境遇に「共感」するにすぎず、その痛みまでまともに受けとめられないからだろう。
観者が、痛みを分かち合うため、すなわち共苦[コムパシオン]を懐くためには、登場人物が自分とはかけはなれた境遇であれ、その痛みは根源的には同じところからくるものであるという認識がなければならないのだが、根源はどこにあるのか?根こぎされ、断絶され、小間切れに、干からびてしまった現代、いったいどこに求めればいいのか?
哀しいかな、演者から発せられた魂[プシュケー]も、つかみどころのない霧靄のように、劇・場に漂ってしまうばかりだ。

おそらく古代ギリシアにおいては、〈運命〉としてそれが存在した。
自らの与るところでなく生まれ、ここに在り、死すべき人間。王であれ、奴隷であれ、おなじ死すべき者であり、果ない無力な存在である人間。それぞれがそれぞれの立場での正義[ダイケ]を懐き、そこに従って行動し、だがそれゆえに引き起こる摩擦、衝突、殺戮、犠牲、復讐…
意志を超えた畏怖すべき力を神々という存在によって顕し、力の関係性、調和[アルモニア]による世界、そしてそれらを貫くのが〈運命〉という巨大な物語/歴史であったろう。

佐藤二葉さんは、古代ギリシア悲劇の強靭な〈力〉を知らしめた。
それは演技というようなものではない、ある戯曲にしたがって、配役を演じるというようなものではない。彼女が為していたのは、直に古代ギリシアを持ち込むことだ。
比喩ではない。いまここで、炬火の影を瞳に宿し、伝令の者として地べたに這いずることだ。それを為すとき、少なくとも二葉さんにとっては、〈運命〉による当為として、いま、ここで為しているのだ。
〈運命〉は、時代や地域を限定しない。古代ギリシアと直に連なっている。信じ強く意識しすることによって、共有することによって、その人物にある葛藤も苦悩も歓喜も、本源はひとつの〈運命〉なのだから。

たとえばカッサンドラという役柄は、ただ「演じる」だけでは、気狂い風に叫びたてるだけになりがちだが、これでは予言の能力をもっているのに、「だれひとり私の言うことを本気にしない」という哀しき咎が解らない。かといってあまり判りやすいと、他の登場人物に理解力がないだけにしか見えなくなってしまうだろう。聞く者がいけないのではなく、アポロンの授けた罰、事が起こるまでけして伝わらない理解されない言葉、これはひとつの背理である。
この難役を二葉さんはどう演じたか。いや二葉さんはカッサンドラを演じなかった。戯曲から解き放ったのだ。
「即興」などというものではない。カッサンドラを古代ギリシアから連れてきて、いま、ここに、カッサンドラの言葉を立ち上げたのだ。
彼女じしん説明していたように、ギリシア悲劇の観客は「神々の視点」にあり、この先にアガメムノンが殺されることを知ってはいる。だがいまここに連れてこられたカッサンドラが何をいうかは、誰にもわからない。おそらく演じている二葉さんにさえも。
彼女、カッサンドラ=二葉さんが、いま、ここで見ている光景、語っている出来事は、劇中のリアルタイムで起こっているようであった。クリュタイメネストラによる殺害を目の当たりにしているよう、血飛沫を浴びているかのようだ。
だが無論観客にはその場面は見えない。見ているカッサンドラ=二葉さんを観るだけだ。
その後、アガメムノンの屍を傍らに刃物をかざしたクリュタイメネストラが現れるとき、初めてカッサンドラの見た光景が、観客に映し出される―過去が再生されるかのように。
「優れた詩人の魂は、過去を予言し、未来を思い出す(高柳重信)」
すなわち、二葉さんの解釈するカッサンドラは「詩人」なのだ。詩の言葉は日常の会話のなかでは基本的に意味をなさない。だが、詩の言葉こそが真理を新しく創出するのだ。

あの夜、あの場にいたものは、たとえ束の間であれ、アポロンの光明によって、詩の言葉をふたたび啓き、ディオニュソスの情動によって、酩酊させ、動揺させた。赤赤と沸騰したものが膚に飛び散り、黒黒と渦巻くものが肺臓に入り込まなかったか。この力が何処から来るものかは、その場にいた者は知っている。

二葉さんは、喫茶店の小スペースに古代ギリシアの〈運命〉を持ち込んだ。
途方もないこの試みはさらに続くだろう。




◆K様より

「アガメムノーン」感想

この世界を領しているのは《言葉》ではないかとぼくは日頃考えています、これも言葉によって考えて、書いています。「ヨハネによる福音書」のゆえではなく、「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、はじめに神と共にあった。万物は言葉によってな成った。」のゆえではなく。しかし言葉によらないもの、言葉の一歩手前に、際にあるものであってもよいとも考える。それにしても言葉はいかなるようにこの世界を差配しているのであろうか? ぼくが普段身近に接する言葉は書かれた状態で接することが多いように思われる、けれども鎌倉のCaffe' Eticaで目撃したドラマでは、演目は書かれた言葉に依拠しつつも、言葉が生まれでてくるまさに発生する現場に立ちあった想いがした。言葉が肉体をまとうとき、あるいは、肉体が言葉によって覆い尽くされるとき、そういう現場に放りこまれた感があった。単独の演者の、黒い服をまとった肉体から、全身の毛孔から言葉が噴きこぼれてくるようであった、喉から、口腔から言葉が発せられる気がしない、全身から無意識のうちに言葉が土砂流のごとくに、噴煙のように流れ出てくるような感触であった。アガメムノーン、カッサンドラー、クリュタイムネーストラ、イーピゲネイア、オレーステース、聞き慣れない異国の固有名詞をはさみつつ、激しい速度をもって、言葉の飛礫がぼくの体に打ちこまれてくる、性急なまでのその息づかいにたじたじとなった、なにか捕捉しがたい感情を喚起しつづけてやまない言葉の鎖。意味となる以前に訴えかけてくる衝迫といおうか。物語られている物語は、おそらく言葉の対極にある、あるいは対抗原理とでもいうべき血の継承と連環、それに対して逆に切断しようとする流血と死の、物語である。父と子、母と子、夫と妻、この三組みの血の交わりの物語だ、それは実は誰もが日常的に生きている生の構造でもあるだろう、それがしかしここまで劇的にえぐりとられ差しだされると衝撃的である。運命、宿命という言葉は、そう易々とは使えない。しかしここに聞かれるうめきは、運命に打ち当たり、運命を切り開こうと切実に戦う、しかし最後はむなしく敗れてゆく、ゆかざるを得ない人間たちのうめきのようだ。そこにはひとりの勝利者も見い出せないように想われる。いかに運命にあらがい、いかに挫折し、敗れ去り、場から退場してゆかざるを得ないかの物語でしかないに想われる。まるでいまを生きる卑小なわれわれのあまりに無様な生きざまに対して、考えてもみよ、この世界にはいかなる勝者もありえないのだと諭すかのように。しかしあの場でぼくの胸に去来したものは、感得したものは、生に対する落胆ではない、いなむしろ自らの宿命を切実に生きかえさねばならないという想いであった。黒いひと切れの服をまとった孤独な演者は、あのあまりに狭い畳2畳くらいの空間で、ギリシア悲劇の虚実のはざまで、そういう切実なメッセージを発していた。謝謝、68歳の老人より。


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ううう、身に余るお言葉の数々に胸がいっぱいです。
これからも気を引き締めて、面白いものを作るよう、励みます!

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