内容とは関係のない去年のらくがき
なにかをとてもとても好きでいることを、私は『愛』だと思っていた。そして、生きていないものを愛するのは比較的容易なのに、生きているものを愛するのはどうしてこんなに難しいんだろう、と長らく思っていた。その疑問が今日氷解して、自分の幼稚さにあきれると同時に、とてもすっきりとした気持ちでいる。
私は自分の母親をとても好きで、彼女が生きていない世界には一秒たりとも生きていくことができないとまで感じているほど母の存在をかけがえなく思っている。彼女がこの世に存在してくれていることが嬉しくて、母親のことを思うだけで優しく穏やかで満たされた気持ちになり、涙すら出そうになる。私はこうしたことごとから、母を強烈に愛している、と思っていた。そう、「愛している」と思うだけで、私を幸福にしてくれる彼女の幸福のためにほとんど心を砕くことがなかった。愛と呼ぶにはあまりに幼稚だ。未就学児が母親を慕うのと全く同じレベルだ、と思い至って愕然としてしまった。
この私の幼稚な「愛している」は母にとどまらず、私の友人たちの多くにも及ぶ。私は大好きな人々がこの世界にいることや自分と関わってくれることを強く喜んでいただけ、彼らから愛を貰うばかりで返すことがほとんどなかった。相手を思っていると思っていただけで、相手の喜びのために尽力することがあまりに少ない。
つまり、私が長らく「愛している」ことだと思っていた自分の状態は、ただ、「あなたが大好き!あなたのことが大好きな私はここにいます!」とわがままな自己主張を繰り返しているだけだった。
本当に独りよがりだ。自分が幸せになることばかり考えている。
生きていないものは変化しない。だから、私の働きかけによって喜ぶこともなければ悲しむこともない。だから、生きていないものを「愛する」のは簡単だ。強烈に好きで好きで、もっと知りたい、もっと近づきたい、もっと幸福にしてもらいたい、と動いているだけで、満たされた「関係」をとることが出来たりする。
でも生きている人々は変化する。働きかけてもらってこちらが嬉しくなったのなら、こちらもそれに応えるべきだと私は今考える。お互いに手を伸ばし合い、関り合い、影響し合うのが、生きたもの同士の「関係」ではないか。愛というのはなにか固まったものではなく、動いて、双方向に行き渡るもののように私は思う。愛は関係だ。相手が取りやすいボールを投げ、相手のボールをしっかりと受け取る。関係が満ちるには、ちゃんとキャッチボールをする必要がある。
私のことを愛してくれる人々は、本当にやさしくて、運動神経がひどく鈍い私でもちゃんとキャッチできるようなボールを投げてくれる人が多い。私は受け取ったボールを自分の周りにため込んでばかりで、全然返していない、もしくは受け手のことを考えずに好き勝手に投げているだけ、という実感がある。また、私の愚鈍さのために受け取り損ねたボールが無数にあるとも感じている。
自分を幸福にしてくれる存在を喜んでいるだけでは、愛に全然足りない。
私はこれから愛することを全力で努めようと思う。投球練習をするというよりもとりあえず相手に向かってボールを投げてみる。どんなボールも受け取ろうとする。反省しただけでは(スタート地点には立てたとしても)悪癖は治らないので、とりあえず、上手くいかないだろうけれど、やってみる。

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