撮っていただいた公演中の様子と、公演後の竪琴と仮面
どういうわけか、いや必然的に、毎年ゴールデンウィークは大忙しで、わー!盛りだくさんだー!と言っているうちに流れ去っていきます。
今年は前回のエントリでご紹介した公演と、
座・高円寺で毎年行われている大々的なこどものお祭り、「リトル高円寺」の村人(要するにスタッフ)をやったり、
5月23日に控えている、発売開始2分でチケットが売り切れちゃったこのイベント(出演と演出協力をさせていただいてます)の打ち合わせで、ゴールデンウィークは大変充実していました。
公演でバッコスの信女をやったすぐあとに、リトル高円寺では白っぽいキトーンに花冠を戴いて泉エリアを主に守っていたのですが、古代ギリシア人のつもりなのに「泉の女神」「妖精」と呼ばれ続け、最終的には「わたしはナーイアス…」と思い込んで折り合いをつけていました。たくさんの小さな人たちと仲良く遊べて楽しかったー!もらったもの、作ってもらったもの、大事にとっておこう。
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さて、先日の公演で、わたしは台詞をすべてギリシア語のまま発話しました。いつもは解説や音楽を絡めた導入をたっぷり用意して公演を行っているのですが、今回はとにかくストイックに!親切心ゼロで!という挑戦でした。しかし、なーんにもフォローしないのはさすがに…というわけで、台詞を用いた『バッカイ』のテキストによせた文章を着ていただいた方に配りました。以下に、その文章の全文を載せます。
公演によせて――『バッカイ』覚え書き
「ギリシア悲劇」って、何ですか?
そう聞かれるたびに、わたしは「およそ2500年前にギリシアで上演されていた、神話を材にとった演劇です」と答える。「悲劇」という訳語のせいで悲しい劇を連想される方も多いが、けっしてそうではなく、むしろハッピーエンドと呼べるものも存在する……ここまで言うと、大抵のひとは混乱しはじめる。一体、悲劇ってなんなの?と。
悲劇はもともとτραγῳδία(トラゴーイディアー)ということばで、これは「山羊の歌」を意味する。なぜ山羊の歌なのかと言えば、それを論じていると日が暮れてしまうので省略するが、山羊は演劇の神ディオニューソスとゆかりの深い生き物である。
ギリシア悲劇というのは、先ほども述べたように、基本的に神話を材に取っている。わたしたちが「桃太郎」「浦島太郎」の物語を良く知っているように、当時のギリシアの観客たちはギリシア神話を良く知っているので、「新しい物語」はギリシア悲劇においては展開されない。観客たちは舞台に現れる神話の英雄たちの行く末を十分承知しながらこれを見下ろす。彼らは劇の冒頭から、オイディプースがどのような恐ろしい運命と出会うのか知っているし、イアーソーンを待ち受ける苦しみを知っている。アンティゴネーが行う埋葬の顛末も、オレステースの復讐が招く禍も、すべて知っている。それでは、何を見に観客たちは劇場に足を運んだのか?古代ギリシアのアテーナイ(現在のアテネ)でおこなわれていた大ディオニューシア祭は年に一度の大演劇祭であるが、これは国家予算の約半分、軍事予算に匹敵するほどの費用をかけて行われていたという。市民身分のものにはテオーリカと呼ばれる入場料が前もって渡されていた。つまり、演劇を見ることは市民にとって義務と言ってよかった。しかし、彼らは嫌々演劇を見に行っていたわけではない。喜びを持って、大きな楽しみとして、劇場に通ったのだ。
すり鉢状の円い劇場で、古代ギリシアの人々は、神話の世界の出来事、英雄たちを襲う運命を見下ろした。彼らは人間が如何にちっぽけで、惨めで、救われない存在であるかを思い知る。それと同時に、そのような惨めでかぎりのある人生の中で、なんと人間存在は美しく偉大でありうるかも学ぶのだ。演劇には、こうした、普段は見ることのできない人間の運命を俯瞰する力がある。こうした俯瞰の力で、悲劇詩人たち(現代における戯曲作家)は様々な悲劇を生み出した。認識に関わる問題を展開する悲劇、他者(とりわけ非市民)への理解と受容を問題にした悲劇、復讐と裁判を扱う悲劇、ギリシアに滅ぼされた国を舞台とする戦争の爪痕を描く悲劇、など。ギリシア悲劇には市民たちを「教育」する機能が備わっている。それは安易な愛国教育などではなく、普段自分たちが生きている世界を構成する価値観を相対化させるような、非常に複雑な教育であった。
さて、今回の公演に用いるテキストに、わたしは三大悲劇詩人のうち最も若いエウリーピデースの最晩年の作品、遺作である『バッカイ』(紀元前406年)を主に選んだ。これは価値あるものとして「選ばれた」ギリシア悲劇のなかでも最も新しい作品、最後の作品である。しかし、この「新しい」作品が扱うのはギリシア悲劇最古の主題である。
この劇が展開するのは、ディオニューソス神の受難と、彼が人間たちへ下す懲罰の物語である。ディオニューソス、バッコスとも呼ばれるこの神は、演劇、葡萄酒、狂気、酩酊、植物の生命力、生死のサイクルなどを職能としてもつ神であり、神話の中や実際の信仰においても、常に新しい神としての様相をそなえているが、線文字Bにも確認される古い神である。この複雑な神を信仰している信女たち、「女バッコスたち」がタイトルロールの『バッカイ』であり、この劇のコロス(合唱隊、舞台上で歌い踊る)を構成している。バッコスの女信者たちは歌い踊ってディオニューソスの顕現をたたえ、こうして祝福される神ディオニューソスは、自分の祭祀を拒むものに対して世にも恐ろしい罰を下す。
自分の中に秘めた欲望や狂気を、人間はコントロールしようとする。しかしそれは本当にコントロール可能なものなのか?ディオニューソスが司るのは、そうした制御不可能な部分、理性や理屈ではどうにもできない力――あたかも自然そのもののように、人間の道理や道徳で整理することができない、その良し悪しを言うことが無駄な力――であるように思われる。こうした、いわば「闇」から目をそむけ、拒むことはかえって危険である。これが存在することを認め、受け入れてこそ、理性の光明が照り映える。しかし、狂気を司り、理性からの解放をたたえるディオニューソスの宗教を、テーバイの若き王ペンテウスは、何かいかがわしいものと考えて拒む。この神に対する傲慢の罪のために、ペンテウスは内なる欲望を引きずり出され、いわばひとり相撲のようなかたちで狂気に陥り、実の母親の手にかかって殺される最期を迎える。みだらな、いかがわしい(ものだと思っている)バッカイの秘儀を見たい――この欲望に憑りつかれたペンテウスは、神に導かれるままに女装して、女たちの様子を覗き見に行く。そして侵入者であることが露呈し、自分が自分であると、息子であると認識されないまま、ディオニューソスの信徒となった自分の母に、犠牲獣として引き裂かれてしまうのだ。
この恐ろしい神罰の物語を、悲劇詩人エウリーピデースはまったく見事に再構成している。オリュンポス宗教化されて久しいディオニューソス宗教の本来の凶暴なエネルギーが渦を巻く中、狂気と欲望のコントロール不可性と、演じることの恐ろしさが、秘儀を覗き見るようなスリルの中で展開され、恐ろしい「教育」が施されていく。このスリルと熱狂、エウリーピデースの匠の技は、その台詞の端々から火花を発しているようだ。
酒と酩酊、演劇は、人間を普段の生活や理性のしがらみから解放する。しかし、これらは危険を伴うものでもある。演じること、仮面をかぶることは、自分を見失い、引き裂かれる恐怖を伴う。役者たちはみな自分を神に差し出す犠牲獣だ。まさに、演劇とは「ブロミオスのための甘美な苦痛(『バッカイ』66行)」に他ならない。さすれば、わたしは自分の中の狂気と恐怖を認めながら、バッコスの信女として、そして犠牲獣として、ディオニューソスの祭を、悲劇を行おう。引き裂かれる苦痛を覚悟しながら、何が起こるかわからない場に自らをさしだそう。
『バッカイ』の全体像をお届けするのはまだまだ先のこととなるだろうが、その中のエネルギーのようなものを「覗き見」するスリルを、皆様と共に分かち合いたい。
佐藤二葉


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