Mad Max: Fury Road
2015年 オーストラリア
監督:ジョージ・ミラー
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以下の文章にはネタバレ要素が含まれていますが、この映画が与えうる喜びを損なうものではないと確信しているため、まだ見ていない人にも安心してお読みいただけると思います
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マッド・マックスシリーズの最新作みました。
とっても良かった……。
どうしてこの映画にこんなに胸躍らされたのだろう、と自分なりにぼんやり考えてみたことを、主に構造について、つらつら書き連ねます。面白いところは数えきれないくらいあったのだけれど、とりあえず、構造について。
◆叙事詩でした
複数の方に指摘されていると思うが、わたしも、この映画は叙事詩のようだ、と感じる。神話的だという意見も聞くが、むしろ叙事詩である。
叙事詩というのは、ざっくりいうと、人間がことばを用いて作りうる芸術の最も古い形態のひとつで、韻文によって歌われる詩である。主に出来事を描写し、心理劇的な要素は前面に出てこないという特徴がある。英雄たちが戦うといった内容のものが多い。『ギルガメシュ叙事詩』(メソポタミア)、『イーリアス』『オデュッセイア』(ギリシア)、『ベーオウルフ』(イングランド)なんかが有名かな~。
わたしは古代ギリシア・ローマのものにしか親しんでいないので、主に『イーリアス』(あと『アエネーイス』など)を念頭に置きながら話を進めていく。
(叙事詩になぞらえてマッドマックスを見るのは、「叙事詩だから素晴らしい!」ということではなくて、優れたストーリーテリングには物語の源流、神髄、エッセンスのようなものが含まれており、やはりそういうものがそなわっている作品は時を超えて残るし古典や最古の作品群を見てみるとそれがくっきりはっきりしてるよね~~という考えからです)
叙事詩が成立する背景には神話があり、叙事詩というのはその広大な神話体系の一部分を切り取って見せるものだと思うのだが、『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』にも似たような構造がある。
ホメーロスの『イーリアス』はギリシア神話がベースの叙事詩だ。有名なトロイア戦争を描写したものだが、この作品はその戦争の全体像を描かない。10年に及ぶ戦争の最後の一年のうちのたった50日ちょっとを描くものである。めそめそとした心理描写は見られないが、かといって彼らが人間的ではないという事はない。むしろちょっと大きすぎるほどに拡大された人間像を見出すことが出来る。この中に描かれる感情は、人間が抱えきれるのだろうかと思うほどに大きく、苛烈だ。この、進行しているものごとの全体像を描き出さない「切り取り」や、強大すぎる人間描写を可能にするのは、背景にある神話である。詩に歌われる範囲を超えて人物たちや不滅の神々が「ある」という確かさが、詩人に叙事詩を可能にさせる。ホメーロスやウェルギリウスが詩的技巧の翼を広げられるのは、背後に大きな神話があるからである。
さて、『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』についてだが、この映画の中で描写されるものも、「切り取られた一部」に過ぎないことが見ているうちに分かる。狂言回し的なポジションであるマックスと共にわたしたちは砦の暮らしやそこに生きる人間が如何に圧制されているかを、ごく部分的に知っていく。なにからなにまで説明せず、「察しろ!(その材料はたくさんちりばめてあるぞ!)」という勢いでどんどん突っ走っていく。
そして、この映画に出てくるキャラクターたちは皆生き生きとしており(モブの一人一人にも人生があるだろうことがはっきりと見て取れる)、それぞれが本当に「生きている」と思えるほど作りこまれている。彼らの生き生きとした感情、憎しみ、怒り、渇望は映画の中で描かれていないものごとに端を発している。世界の設定にしても、映画の中では十分に語られないところまでしっかりと作りこまれているだろうことは容易に想像が出来、カメラに収められていない(マックスが見ていない)範囲にもしっかりと宇宙が広がっている確かさがあった。この、広がる世界に対して歌われるのはごく一部、しかしその「一部」の苛烈さを支えるのは背後の世界観である、というのはまさに叙事詩のようではないか!
(また、展開が一区切りするたびに画面がブラックアウトするのも、叙事詩の「第○歌 完」みたいな趣があってよかった。また、細かな要素にも叙事詩的な趣がたくさん見られる。ことばの繰り返し、対になるモチーフの登場など。あと、砂嵐の中の地獄絵図をあのように美的に、いっそ静謐と思えるような印象に描くのも、ホメーロスの比喩表現を思い出した。)
「物語」の推進力がFury(怒り)だというのも、まったく叙事詩的である。ヨーロッパ最古の文学作品、史上最高の叙事詩『イーリアス』は「怒り」という単語から始まるのだ!怒れる英雄たる大隊長フュリオサ、神話たる語られない設定、行って帰ってくるというシンプルな筋に絡む苛烈な感情、そして戦闘に次ぐ戦闘!はい、マッドマックスは叙事詩的です!!
◆狂言回しマックス
シリーズ通しての主人公であるマックスは、この4作目において主に狂言回しの役割を務めている。叙事詩や悲劇が、神話のごく一部を切り取っていきなり始まっても問題ないのは、受け手がその神話世界を共有しているからに他ならないが、「マッド・マックス」における背景の神話について、わたしたちは知らない。前三作を見ていたとしても、「怒りのデス・ロード」を支える世界観はわからない。となれば、案内役が必要だ。
いきなり巻き込まれて「英雄(フュリオサ)」の戦いに関与することとなるマックスの立場は、抗いようのない運命に巻き込まれているギリシア悲劇の英雄のようなところもあるが、一貫して「彼のドラマ」にならないので、あまり悲劇的ではない。しかし、襲い掛かってきた運命を受け止めて積極的に戦うさまはたしかに英雄的でもある。この、狂言回し―巻き込まれ型英雄のバランスが絶妙なのも、この作品の面白いところだと思った。大隊長フュリオサやイモータン・ジョーの妻たちとの人間的な交流、彼女たちへのサポートは、わたしたち観客の、彼女たちに寄り添いたいという願望を受け止めてくれているようで、物語中盤から、この主人公を信頼して、心を預けて映画を見ることが出来た。マックスは、行って帰ってくるという迷宮構造を持つこの映画におけるアリアドネーの糸であり、一度死んで生き返る冥府行のプシューコポンポスであったのだ。
◆Fury《復讐の女神》は誰か
「マッドマックス・怒りのデスロード」の原題はMad Max: Fury Roadだ。Furyは憤怒を表す英語だが、元をたどっていくと、ローマ神話の女神フリアエ(複数系)にたどり着く。これは復讐の女神であり、ギリシア神話のエリーニュエスに対応している。そう、タイトルで歌われている「怒り」とは復讐の怒りなのだ。
さて、そうとなれば、その名に復讐の女神を戴くフュリオサは復讐の女神……と考えたくなるが、彼女はあまり「復讐の女神」らしくはない(むしろ、復讐の女神によって復讐することを迫られる英雄のポジションだ)。ではFuryが表すところの復讐の女神はいったいどこにいるのだろう。
ギリシア悲劇には復讐の女神が大きな影を落とす作品がいくつもある。そのうちの一つに『コエーポロイ(供養する女たち)』という作品があり、ざっくり筋を言うと、神託によって父の仇討を命じられた青年が、故郷に帰ってきて実の母とその愛人に復讐をはたすというはなしだ。この悲劇のコロス(合唱隊)はタイトルロールの「供養する女たち」であり、王妃に仕える侍女たちから成る。彼女たちは青年の復讐を応援する。
ラストシーンで、発狂した青年はあたりをみて復讐の女神の存在を告げる。しかしそこには彼が討ち果たした母親とその愛人の死体と、コロスたち、そして観客しかいない。コロスが復讐を望むように、観客は青年が復讐することを望む。なぜなら、それが神話によって定められた彼の運命であり、この劇の一番のクライマックスであるからだ。ここでわたしたちは、ほかならぬコロスと、コロスに代表される(※) 観客のわたしたちこそ、オレステースを復讐へと駆り立てた復讐の女神たちではないか、と気が付く。
「怒りのデスロード」においても、一番復讐を望んでいるのは観客のわたしだったのでは、と映画館を出てから思った。わたしはモノではない、という怒りによって、フュリオサと5人の妻たちが緑の地へと進むのを後押しし、どことも知れぬ楽園を目指すのではなく復讐を――社会をひっくり返そうと、マックスの背後に立って願っていたのはほかでもないわたし自身だ。
復讐の女神たちが復讐者を真に苦しめるのは、復讐が終わった後からだということを、多くのギリシア悲劇は示している。実際、「復讐」を果たしたフュリオサたちの前途は多難であることは容易に想像がつく。そして、彼女たちをまちうける苦難は、そのまま、わたしたちの現実の生活につながっているようにも見える。
映画を見終えたわたしたちは、この復讐者の苦しみを自分の生活の中に引き受けなくてはならないだろう。そうした苦しみの中で生きる力を奮い立たせるようなところがあるため、この映画は素晴らしいと、わたしは思うのだ。
※ コロスは観客を劇の世界に案内する機能を備えている。ギリシア悲劇においてもっとも観客に近いポジションにあると言ってもよいかもしれない(なにしろ、コロスはプロの俳優ではなく、市民による選抜隊によって演じられたし)。
★あとこれは完全に個人的な感想。帰省中に父と妹とこの映画を見に行ったところ、父とわたしが真剣に見ている横で妹が大爆笑していたり、わたしがぽろぽろ泣いているところで父が笑っていたり、三人ともそれぞれ自由にこの映画の面白さをうけとり、それでも見終わった後に「面白かったね~!」と心を一つに出来たのも、素晴らしかった。受容の仕方に自由がある――というか幅を持たせて作られている印象を受けた(爆発して火を噴くギターが前面に出てくるところとか、どう見ても笑いどころだよね?あんなにシリアスなシーンなのに、ユーモアが織りこまれていて感動した)。観客に見方を強制しない、観客の自由を祝福するような映画だった。とっても好き。
★「女の映画」というよりは、「弱者の映画」って感じがした。
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