昨日の夜、心の友K嬢に誘ってもらって、渋谷に出かけてきました。
(見てるかどうか分からないけどありがとう!
K、って記すと漱石の『こころ』みたいだな)
今年の6月に無くなってしまったピナ・バウシュという、
素敵な素敵な芸術家の追悼(?)トークショーを聞くというのが目的。
場所は狭い路地の中にいきなりぱっと表れた様な雰囲気の
なかなか趣のある芸術関連の書籍を主に取り扱っている本屋さん。
去年の春頃、これまたK嬢に誘ってもらって、
ピナ・バウシュが芸術監督を務めていたヴッパタール舞踏団の
来日公演を見にいったんですが、
なんていうかすっごく感動しちゃったんですね。
アレッサンドラ・フェリの踊りを見たときにも強く感じたんですが
(フェリはもちろん生では見てないんですけど)
人間は、言葉を用いなくてもずいぶんと多くの、
そして深い物事を身体によって表現できるんだ、という
一種のカルチャーショックみたいなものを受けました。
(まさに、言葉に頼りきった学問の中を深くもぐろうとしていただけに!)
トークショーの中で、
ピナの活動も含めて、80年代は「コミュニケーション」を取ろうとする、
人と繋がろうとする芸術というのが模索され始めたということが言われていて、
お話していた人たち(有名な芸術系雑誌の編集長の人と、ピナに詳しい人)が
「80年代で初めて」といっていたんですが、
ギリシアでは、いま芸術と呼ばれているもの=ムーサのわざは
まさにパブリックな場で、人と繋がっていることを確認したり、
むしろ繋がりを求めたり強化するために行われていたんじゃないか、
と私は思っているので、
(ギリシア悲劇は、そもそも構造的に全体性と生の全体感・充実感の獲得を
促す機能を持っているとわたしはほとんど確信に近く思っているんですが、
これについては長くなるのでまたいつか)
「はじめて」というより、ここに来てやっと、
そういう方向に「戻ってきた」んだなあと思いました。
ピナ・バウシュの踊りはなにか、
講演後にロビーで踊りを真似している人たちが三組くらいはいつもいるくらい、
見たあとに真似したくなるものがある、ということが言われていたんですが、
それっていいなあ、と私は思います。
見て、受け取って、
それをしたい、体を動かしたい、私も表現したい!と思わせる
パワーがあるって素敵。
それって、すごく「繋がって」いるなあと思います。
私がギリシア(悲劇)を大好きなのは、
そういう「繋がり」を感じられるところがあるから、というのが一番の理由で、
舞台を「舞台」という、自分の現実から切り離されたものにしてしまうのではなくて、
その中に拡大された人間=自分の姿を見出して、自分も参加して、
そして何かを受け取って帰っていく――
―そういうことを、やっていたんじゃないかと思うからです。
80年代の芸術がそういう風向きに変わってきたという話を聞いて、
私が芸術に「つながり」だとか「生の全体感」を求めているのは
決して間違いじゃない、と思いました。
人間は皆きっとそういうものを求めているはずだ!と信じたいので
かなり強力なサポートを得られた気分です(笑)
死ぬ前に何かしら、そういうことを成し遂げたい!
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院試、受かってましたー。ほっ。
励ましてくださった皆様、ご心配をおかけいたしました。
そして、ありがとうございます
でもまだあと二つ受けるから全然戦いは終わっていない…。
2 件のコメント:
おめでとう!受かると勝手に思ってたけど・・笑
そして『こころ』にあやかって、ふたばと白馬の王子を取り合いした上私が自害することのないよう祈ります。笑
極論を言えば、舞台で自分を見出すっていうことは、常にできたと思う。優れた芸術作品はきっと全てそう。
80年代は、それを意図的に、新しい手法として模索し始めたのかもしれないね。
えへへ、ありがとう!!!私は落ちてるんじゃないかと思ってたよ…。
いや、そもそも私たちに共通の白馬の王子様がはたして現れるのかどうか、そこから議論せねばなるまい(笑)
優れた芸術作品は、きっと絵画の中にさえ(まだ体験がないからわかんないけど)自分を見出せるんだろうね。うんうん。
要するに普遍性ってことなのかな。
優れた芸術家は意識せずにそれをやってのけちゃうんだろうなー。いいなー。
はてさて、これからの芸術は何処に向かっていくんだろう!
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